2025年7月24日、長年続くタイ・カンボジア国境紛争が過去10年以上で最悪の武力衝突へとエスカレートしました。この問題は比較的平穏な時期がしばらく続いていましたが、2025年5月に緊張が高まり始めると、一連の事件を受けて7月に収拾がつかなくなりました。植民地時代の国境を原因とする歴史的紛争に根ざした今回の衝突により、民間人を中心に少なくとも38人が死亡し、報道によると両国合わせて30万人以上の一般市民が避難を余儀なくされました。5日間の戦闘を経て両国は停戦に合意し、現在もその状態が維持されているものの、タイ軍は停戦発効直後にカンボジアが「無差別攻撃」を行ったと非難しています。一方でカンボジア側はこの主張を否定し、自国軍は停戦を厳格に遵守していると述べました。
*本記事は、弊社マキナレコードが提携する英Silobreaker社のブログ記事を翻訳したものです。
7月29日、両国の軍司令官は合意に従って会談を行い、誤解を招きかねない軍隊の移動を避けると約束しました。さらに一般国境委員会(GBC)の設置を取り決め、初めての会合が2025年8月4日に開催されました。また、カンボジア・タイ・マレーシアの外務大臣および国防大臣は、停戦の実施と監視を行うための枠組みを構築するよう指示されています。
この停戦合意は、東南アジア諸国連合(ASEAN)議長国として米国・中国と共に協議を主催したマレーシアのアンワル・イブラヒム首相の仲介によって実現しました。また、当初は仲介の受け入れに消極的だったタイ政府を交渉の場に就かせたドナルド・トランプ米大統領の介入も評価されています。トランプ大統領は「戦闘が停止するまで」両国との貿易交渉を凍結すると警告し、停戦合意に至らない場合には米国への輸出物に36%の関税を課すと通告していました。
この紛争はASEAN、カンボジアの主要支援国である中国、そしてタイと軍事的協調関係にある米国の迅速な対応を引き出すに至っています。米国と中国の外交官らはASEANと協力し、軍事衝突を続けることは容認できないと通達しました。一方、カンボジアのフン・マネット首相は中国の尽力を認めるとともに、トランプ大統領の支援にも謝意を述べています。タイのプームタム・ウェーチャヤチャイ首相代行も同じく、停戦を働きかけたトランプ大統領に感謝の意を表しました。また、カンボジアは国連安全保障理事会(UNSC)に対し、緊急会合を開催するよう要請します。これを受け、2025年7月25日にはUNSCで非公開の会合が開かれ、15か国すべての理事国がタイ・カンボジア双方に対して緊張緩和と最大限の自制、そして紛争の平和的解決を強く求めました。さらに、UNSCはASEANに早期解決を促すとともに、マレーシアによる仲介努力を支持しています。
タイ・カンボジア国境紛争の歴史的経緯
この軍事衝突は、タイとカンボジアの間で長年続く領土紛争が激化した結果と言えます。紛争の根底にあるのは1904年と1907年に締結されたフランス・シャム条約で、これらの取り決めによってシャム王国(現タイ)と植民地時代のフランス領インドシナ(現カンボジア、ラオス、ベトナム)の国境が定められました。この対立の主な争点は、11世紀に建立されたプレアビヒア寺院付近の地域の帰属をめぐるものです。1907年にフランスの地図製作者が手掛けた地図では、国境として定められたダンレク(タイ語:ドンラック)山地の分水嶺線より南側に外れた場所にプレアビヒア寺院周辺を含む地域一帯が描画されていたため、同寺院はカンボジア領内に位置するとされていました。しかし、タイ側はこの地図が誤りであると指摘し、1904年の条約文では寺院がタイの領土内に存在するように記されていると主張しています。
1953年のカンボジア独立後、タイ軍がプレアビヒア寺院を占領したため、カンボジアはこの紛争を国際司法裁判所(ICJ)に持ち込みました。ICJによる1962年の判決ではタイが前述の地図を承認しており、数十年にわたって正式に異議を唱えていなかったことを理由に同寺院をカンボジア領と認めます。しかし、その判決では国境が明確に画定されなかったため、周辺の土地は引き続き係争地として取り扱われることになりました。そして2008年、カンボジアの働きかけでプレアビヒア寺院がユネスコの世界遺産に登録されると、紛争に再び火がつきます。タイ政府は当初、世界遺産への登録を支持しましたが、自国の領土を手放したとして愛国主義的な反対派から糾弾されてしまいます。すると一転して立場を変え、タイが主権を主張する寺院周辺の地域もカンボジア領として登録されていると反発しました。これがきっかけとなり、プレアビヒア一帯では2008年から2011年にかけて最初の一連の国境衝突が発生し、 2011年には両国が領有権を主張する別の2つの古代寺院群をめぐる紛争が勃発しました。この年の戦闘は2025年以前で最も激しい武力衝突とされ、国際仲裁を促しています。そして2011年5月に停戦が成立すると、同12月にはプレアビヒア周辺の係争地域から両軍が撤退しました。
タイ・カンボジア紛争におけるICJの判決をめぐる議論
カンボジアは1907年版の地図とICJによる判決が自国の言い分を正当化していると考え、国際法に従って主権領土を防衛していると主張しています。また、第三者による仲裁を繰り返し求めており、調停での解決に消極的なタイを批判しています。2011年にはICJへ提訴し、1962年の判決の対象となった領土を明確化するよう要請しました。2013年、ICJは全員一致でプレアビヒア全域に対するカンボジアの主権を支持し、タイ軍に撤退を命じます。この判決はタイで大規模なデモを引き起こし、これに乗じた反対派が国家主権の喪失だと政府を批判しました。タイは1962年の判決を認めながらも、2013年の帰属明確化には満足せず、プレアビヒアを含まない国境画定についてICJの管轄権を受け入れていません。
タイはこれ以来、この問題は国際裁判所ではなく合同委員会または交渉を通じて解決されるべきという立場を維持し、以降の訴訟においてICJの管轄権を認めていません。そのような立場は後続の歴代政権にも支持されており、カンボジアが2025年6月にICJへ再び提訴する計画を発表した際、タイはこの問題においてICJの管轄権を認めないとの公式見解を改めて表明しました。タイがICJの管轄権を否定するということは、同国が手続きへの参加に同意して管轄権を黙示的に認めない限り、ICJによる裁判が開始されない可能性があることを意味します。
タイ国内の政治的影響
この対立はタイの政治にも余波が広がり、ペートンタン・シナワット首相はカンボジアのフン・セン前首相との電話会談の音声が流出したことを受け、2025年7月1日に職務の一時停止を命じられました。今年5月に国境での緊張が高まり、翌6月に事態の沈静化を図るべくフン・セン前首相と電話会談を行ったシナワット首相は、通話相手を「おじさん」と親しげに呼んだほか、タイ軍の司令官を批判するような発言を行いました。カンボジアの上院議長を務めるフン・セン前首相は、フン・マネット現首相の父親であり、40年近くカンボジアを統治していたことから、今なお大きな影響力を持つ人物です。軍の政治的権力と影響力が強いタイでは、流出した電話音声が国民の怒りにも火をつけました。軍人の任命が王令によって行われるため、シナワット首相の発言は軍に対する無礼、すなわちタイ王室への侮辱と受け止められたのです。その後、フン・セン前首相が会話の音声データをすべて公開しただけでなく、シナワット政権が3か月以内に崩壊すると予想したことも状況を悪化させました。フン・セン前首相が音声データの全容を公開し、公然と嘲笑するかのようにシナワット首相の失脚を予測したことは、同首相に恥をかかせるのみならず、自らの影響力を誇示するための意図的な行為とみなされたため、タイの愛国主義者の反発をさらに煽りました。ロイター通信の報道によると、フン・セン前首相は最近の国境紛争でカンボジア側の対応を主導していたとされています。
まとめ:2025年7月のタイ・カンボジア紛争
2025年7月の紛争により、領土問題と拭いきれない歴史的遺恨に端を発する根深い対立関係に再び火がつきました。今のところ停戦状態が維持されているものの、これは国際的な圧力を受けて合意されたものであり、その持続性には依然として疑いの目が向けられています。恒久的な平和の実現には絶え間ない対話が不可欠であり、両政府は平和的解決を目指していると公言していますが、相互不信と国家主義的な政治姿勢が何度となく交渉を阻害してきました。タイのペートンタン・シナワット首相と、カンボジアで長く実権を握るフン・セン前首相との電話対談がもたらした政治的余波は、世襲に基づく両国の政治ネットワークの複雑な事情を映し出しています。
最終的には双方が対話し、国境線を確定させなければ恒久的な平和は訪れそうにありませんが、不信に満ちたこれまでの歩みを振り返ると、第三者による仲裁が必要なのかもしれません。しかし1960年代以降、タイはICJの管轄権を受け入れておらず、いかなる紛争も国際裁判ではなく二国間の努力を通じて解決されるべきとの主張を繰り返しています。現状において、タイとカンボジアの国境問題はくすぶり続ける火種のままであり、非常に緊迫した状態に変わりはありません。それでも停戦と初回の協議は、事態の沈静化に加え、平和と安全の回復に向けた「重要な第一歩」になると考えられています。
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目次
- 序論
- ハクティビズム
- ハクティビズムの変遷
- 戦争におけるハクティビズム
- 「選挙イヤー」におけるハクティビズム
- 絡み合う動機
- 国家の支援を受けたハッカー集団
- 偽情報
- 国家間対立
- 偽情報とロシア・ウクライナ戦争
- 偽情報とイスラエル・ハマス戦争
- 偽情報と選挙が世界にあふれた2024年
- 国家型APTの活動
- 中国
- ロシア
- 北朝鮮
- イラン
- マルチチャネルインテリジェンスの運用化における課題と関連リスク